昭和57年9月23日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
第74節 かわいいと思う心が神心じゃ。
先だって、お道のよいものを読んでもらっておりました中に、ある有名な先生が、ある高徳なあの、仏教の、いやお坊さんと話しをされた時に、そのお坊さんが、仏教では慈悲と説きます、キリスト教では愛を説きますが、金光教では何を説きますかと言われた時に、とっさに戸惑ったという風に言うておられました。そして、答えた、答えておられる事が、あの、かわいいと思う心ですと答えたという記事を聞きました。
けど、私は聞いた時に、もう一言、かわいいと思う心が神心と仰るから、金光教では神心を説きますと言いなされば良いのになと思った事でございます。だから、ここで言う、かわいいと思う心だけではね、実はお道の信心の、まっ、芯とは言えないのです。その、神心に繋がるかわいいでなからなきゃならないという事。ね。やっぱり、世の中には一つの大変人情家という人がありましてね。親切深い人もあって。
非常にこの、可愛そうな、かわいいとかという心を、まっ、ふんだんに持っておる人がありますけれども。だから、それではないのです。神心に繋がるかわいいと思う心。ですから、その神心をいよいよ頂かせてもらう為に、どうしても合楽で言われる、いわゆる御理念のマスターがいるですね。天地日月の心。ね、いよいよそれが神の心ですから。その天地日月の心が自分の心の中に、こう入って来るという事。そこから生まれて来るかわいいでなからなければならんと思うです。
私は今日は皆さんに、どうでもここ一つ、こういうおかげを頂いてもらいたいという風に感じたんですけれども。まあ、今日は、昨夜は例によって御霊様の、今日のお祭りがスムーズに行くようにお願いをさせて頂いたのでございますが。もう、帰らせて頂いて、もう休む時間はわずかしかなかったですけども、やっぱ休んでおりまして、もう、お夢にまざまざと頂いた事なんです。
それが、どういう事を、まあ、掻い摘んで申しますというかと言うと。信心をさせて頂いてね、その、まあ、ここ2~3日、御用という事が言われますが。その、御用という事ですからね。ただ、捕り手の役人が言うような、その御用、御用ではいけんのです。自分が取り立てるための御用ではいけんのです。どこまでも、御用。まあ、言うならば玉水の湯川先生が仰るように。神様がご主人で、ね、店長は一番番頭。奥さんはそこの女中頭というような頂き方で、まっ、説かれたという事です。
ですから、御用という事は、ね、そこにご主人があって、そして、そこに使われておる私という。そこで、んなら、まじめに働けば、はあ、あの番頭はまじめと。あの女中はどうも油ばっかりを売るというような事では、御用にならないでしょう。ね、ご主人から認められる。ご主人から信じられる。そういうまじめな働きであって、いわゆる、ご主人大事に、お店大事に働く人であって、初めて御用という事になる。
そこに、神様との間に、信じ、信じられる仲も生まれて来るという事に、まあ、なります訳。ね。ご主人が見られて、今日一日どういう自分が働きをしたであろうかと、いう、まあところに焦点を置かなきゃならんのですが。皆おかげを、豊なゆとりのあるおかげを頂きたい。そんなら、その御用の中でもね、いよいよ大切にしなければならんのは、時間です。時間を大切にしなきゃいけんです。でないと、ゆとりは生まれて来んです。
ね、もうゆとりのある生活。豊な生活を頂くなら、色々それには要素がありましょう。けれども、その中でね、一番大切な事は、ね、豊な心になる事です。ゆとりのある心の状態である事です。ね。もう、こんなに馬鹿らしい事はない事はね、もうイライラモヤモヤする事ほどタイミングを狂わせる事はないという事を頂いたです。どんな素晴らしいタイミングがね、生まれて来ようとしておっても、もうイライラやらモヤモヤやら、言うなら腹立ちやらをいたしましたら、タイミングが必ず崩れる。
崩れると、またなお、モヤモヤする。いよいよおかげの受けられない事になってしまいます。いよいよおかげの受けられない事になってしまいます。ね。お互い素晴らしいタイミングのおかげを頂きたい。ね。必要な時に必要なものが応じて頂けれるようなおかげを頂きたい。そん為には、いよいよ私どもが豊な心にならなきゃ。ゆとりのある生活の出ける為には、ゆとりのある毎日でなからなければいけない、心が。そこに、ゆとりのあるおかげも、豊なおかげも約束されるのです。
これは、信心を抜きにしたら、どうか知りません。信心がなくても非常に几帳面な人がありましてね、時間(励行?)なんかキチッとする人があります。けれども、これは信心を頂いて、ね、頂く。そしてその上、信心による時間を大切にする。ゆとりのある生き方をする。いよいよ、豊な心になるというのでなからなければ、信心はなくても豊な心の人がありますよね、世の中に。それとは違うですから。その辺のところは、よく、信心ちせっかく頂いておるのですから。
もちっと、ゆとりのある、もちっと豊な自分にならせてもらおう。為に、例えば、んなら時間を大切にするというような修行を本気でしなければいけない事です。ね。もう、信心でやる、なら、これはまあ、御理念に基づく言うならば、と言うならばです。もう絶対、時間励行の出けない人は、もう御理念に基っとるのです。ね。例えば、んなら、五時から始まるなら、10分前に出て来ると、心にゆとりが出けるでしょう。五時ギリギリでも慌てになりません。遅くどもなると、ああ、遅うなった。
もう、それがおかげを頂かん、言うならタイミングを崩す素になるのです。今日はその事を、私はもう、まざまざと色々なこの角度からお夢の中頂いたんですけどもね。はあ、これは一つ皆にこの修行をしてもらわんならんと私思いました。合楽に通うて来るなら、まず時間を大切にせよと。もう、時間励行じゃなくて、五時から始まるもんなら、五時前十分には出て来るようにせよと。そこにゆとりが出ける。ゆっくりと御祈念が出けるだけじゃない、そのゆっくりと出けるその心が、ゆっくりとしたおかげに繋がるのです。
がつがつのおかげじゃないんです。ゆとりのあるおかげに繋がるのです。私は今日はここんとこだけをね、しっかり皆さんにあの、聞いて頂こうと思うて、今日は御祈念終わったんですけれども。だから、難しい事じゃないです。ね、んなら、もう十分、なら、もう20分、言うならばあの、時間を大切にする事をですよ、あの修行と思うんです。これは、もうゆとりのあるおかげを頂く、先ず第一の修行です。皆が豊なゆとりのある生活をしたいです。
そんなら先ず、合楽理念では先ず、時間を大切にせよと言う。ゆとりのある、言うならば生活がしたいならば、時間でもゆとりのある時間を生かしていけと。ね、はあ、ようやく間に合うたと言うのじゃなくて、そのゆとりのある、それを自分の修行にするという心からね、豊かな生活、ゆとりのある生活が約束されるというのですから、もう見やすい事でしょうが。それを自分の身につけるという事です。だ、私がまあ、ゆとりのある、まあ、豊なおかげを頂いておる、と自分で思うんですよ。
そして、自分があの、時間を大切にする事を、ははあ、やっぱそれけんばいなと、今朝から思うくらいでした。はい。これは皆さん、どうでも実行してもらいたい。ね、そういう、言うならば天地日月の心と言われる日月の心の中には、正確無比の心というのがあるでしょうもん。だから、その正確無比の心を、今日私は、時間なら時間というところだけに焦点を置いて聞いて頂いた訳ですけれども。それを自分の生き方にさせて頂いたら。もう、それは、天地の心を心とした事になるでしょうが。
今日は、私は今日の御理解は、ね、かわいいと思う心が神心と仰るが。確かにお道の信心で、ね、仏教では慈悲を説く、キリスト教は愛を説く。金光教では神心を説くのです。ね、その神心から生まれてくる可愛いという心でなかなきゃいけんのです。今日の御理解はそうですけども。私、今日の御理解のその、神心という事をです。なら、天地日月の心が、そのまま神の心である。そこで、天の心にも、地の心にもなろうと日頃精進させて頂く手立てが、合楽理念に説かれる。
ね、特に、んなら日月の心。これは、実意丁寧。それこそ、日月ほど狂いのないものはないのですから、私どもの生き方の上にも、狂いのない生き方を身につけて行きたい。ね、ところが、例えば、この前の何と言うですかねあれは。お家で、私がお花束を頂いたのは。あれは何でしたか。あっ、信徒総会でしたね、あの時は。総会の時、ちょっと時間が遅れましたでしょう。ね、私のところへ、中心である私が例えば時間が遅れましてもね、何かの場合に止む得ない、時間が遅れましてもね、神様は日頃そういう時間を大切にする生き方をしておると、それに合わせて下さるです。
あん時にも、ちょうど時間が少し遅れたけども、遅れたおかげで、あの、花束のお供えをなさった方があったって言う。秋永先生がそれを、もう本当恐れ入りましたと、こう言うて言うておりました。だいたい、あの、大会にはあの花束贈呈なんかってのはなかったんです。ところが、ご夫婦にこう上げられるようにして、あの、花のお供えがあった。そんなら、その会の始まる前に、花束贈呈をしようと。まっ、神乍な事だったと言うて、言うておりましたがね。
これなんかは、日頃、私が大切にしておるから、何かの事情で遅くなった、遅くなった事がおかげであったというようなタイミングが生まれてくるです。日頃、こればして行きよりますとね。人間ですから、どこでどういう風にこう、なら、時間でも、もう確かに汽車の時間なら汽車の時間に、何時じゃからと言うていうような時にも、何かの事で遅くなるような事がありますです。ところが、ちゃんと汽車が待っとるです、日頃その信心しよれば。本当ですよ、はい。
昨日は、椛目で何か交通事故がありました。あれもこう、恐らくもう亡くなっておられるだろうという事でございましたが。もう、本当に一分間ずれておったら、そんな事故になってなかったでしょうね。昨日は、ある方が一周間に一遍、必ず参って来るんです。ところがこの前、確か参って来なかったごたったけん、この前は、参ってこじゃったごたったのち言うたら、それが貴方、ちっとばっか飲みすぎてからケガしとるち。こう。ね。
いつも親先生が、いつも言うてござるけん、私がそげん飲みすぎなさんなと言わんです、私が。ね。飲む前には、私が必ず過ぎて飲みすぎますから、ケガ過ちのないように、お繰り合わせを願うてから飲みなさいち言う。ところが、その日はその事ばお願いするとば忘れとりましたち。ほれで帰りにね、どこにかひっくり返って、こう顔ば怪我したったとこう言うのです。いつかここで、あの、四と樽を開けて、お酒頂いた時が、その方が飲みすぎて、帰りがけ自転車で帰りよってから、川に落てごじゃります。
あれが、もう本当1分か2分( )もう溺くれて死んじゃったじゃん。ところが、ちょうど通り合わせた人があったから。結局、だから、酒を飲むなじゃいかんごたるですね。飲んでもいいから、ケガ過ちのないように、お繰り合わせを願うと、そういうタイミングは頂くる訳です。例えば、んなら、もう酒も飲まんというような、例えば、そのしてもです。事故というものは、ね、早かったり、遅かったりで関わってくるのですから。昨日、私はその事を神様にお願いさせて頂いたんですけれども。
本当に、まあ、1分早いか遅かったらそういう事故もなかっただろからと思ったら、あの、お悲願中である事を、お礼を申し上げよと頂いたです。これ、全然わたしかかわりのない、言うならば亡くなられても御霊でしょうけれどね。ええ。だから、そういう事、色々考えさせて頂きよって、思うた事でございますけれども。私ども人間、なら、時間を大切にするから、する事を修行とするという。正確無比な生き方は修行とするという。そこに、例えば、ひょっとして、なら人間ですから狂いがあっても、狂うたところに神様がタイミングを持ってって下さるです。
きちっと合う。ね、それが、んなら、悪い方のタイミングになって来る時にゃ、そういう事故なんかが起こって来るんです。ね、もう1分遅かったら。もう、ちょっとゆっくりして行きよんなさったら、あんな事なかったろうにというような事になって来るです。だから、これはまあ、私はおかげを頂かなければ出来る事っじゃないと思うですね。ですから、そういうその、おかげもね、日頃その、素晴らしいタイミングの頂けれる信心を、日頃しておくという事であります。
ね、昨日、一昨日あの、お榊とりに行きました。行きがけは、もう日にちがないから行かにゃ出来んから、まあ、雨合羽着て皆行った訳でしょう。ところが、行く間はジャアジャア降りでしたけども、あちらへ着いたら、降り止みました。お榊切って、自動車に乗り込みましたら、またジャアジャア降りでした。本当お繰り合わせ頂いたと言うて、まあ、今日の玉串を取り行った先生方が申しておりました。
合楽ではそういうタイミングを頂くですね。これは、やはり私の信心がそういう信心ですから、そういう風に潤うて来る訳でしょう。ね。これは、例えば金銭でも、何でも同じ事です。ね、万事万端の上に、御都合お繰り合わせ。素晴らしいタイミング。いや、少しはゆとりのある、豊なおかげを頂きたいならばです。先ず、自分が豊な心。ゆとりのある生き方をいよいよ身につけなければいけません。
それには、今日は私がね、天地日月の心の中の一つであるところの、いわゆる日月の心のような正確無比というような生き方を、自分の信心、もう絶対自分は、時間励行を破るような事はないというね、信条を作らにゃいかんです。ね。だから、もう例えば五時から始まるのならば、五時十分前には必ず自分は行っておる。そこにゆとりが生まれる。そのゆとりが、今度は自分達の生活のゆとりにも繋がるというのですから。今日の御理解、皆さん本気で実行しなきゃいけませんよ。
ね、これが信心がなくてです、正確な人というのはありますけど、それはおかげには繋がりません。これはもう、違います。豊な心の人が、なら豊なおかげを頂いとるちゅう事じゃありません。けど、信心によって豊な心が頂く。ゆとりのある心を頂いたら、ゆとりのある、豊な心が約束されるです。ね。お互い、ゆとりのある生活がしたい、豊かな生活がしたい。なら、今日は一つ、ね、その、時間一つを日月の心で、これを自分の信心の修行とも、また信条にもなってしまうようなおかげを頂いて、そこばしだごだすると、おかげの方は必ずしだごだになりますです。
ね、だからしだごだなおかげじゃいかんでしょうが皆さん。もう、やっとかっとおかげ頂くじゃいかんでしょうが。ゆとりのあるおかげを頂きたいです。ね、豊なおかげを頂きたいです。ね、それが、んなら、いわゆる神の心の一分でもありますから。ね、天地日月の心なる事肝と仰せられる、その修行をさせて頂く事ですから、ね。先ず、そういう神心が自分の心の中に入って。そして、そこから生まれてくる可愛いという心であって、今日の御理解、かわいいと思う心が神心じゃと。
仏教では慈悲を説き、キリスト教では愛を説くが、金光教では神心を説くと。と言う時にです、金光教では、時間を大切に尊ぶ事を説くと言うても、だから良いようなもんです。日月の心ですから。ね、そこから生まれてくる可愛いと思う心。それが、いよいよ神心。それに天の心が備わり、地の心の修行をさせて頂くならば、いよいよ、ね、神の心を心として自分の生き方までに頂く事が出ける。また、それを現す事も出けるという事になりますね。どうぞ。